来ても逸れても大ごとな台風。~台風が季語の俳句について考える~

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なかなかやってこなかった台風

だらだらと日本列島に居座って、そのまま熱帯低気圧に変わっていった今回の台風。天気はずっと荒れ模様、電車のダイヤも乱れまくりでしたが、外出できないほどではない週末でした。

そんな台風騒動のさなかに、台風が季語の俳句にはどんなものがあるだろう?という疑問が浮かんだので調べてみました。使用したのは現代俳句協会の現代俳句データベース。佐々木敏光氏の「現代俳句抄」(収録句数約 5000 句)を基礎データとし、順次、現代俳句協会IT部で追加しているそうです。17文字で季語を入れるという制約がゆえに、知らないだけで同じくを見知らぬ誰かが作っているということがあるんじゃないかとよく思うのですが、データベースが拡大する中でそんなケースが見つかったりするのかもしれません。

台風が季語の俳句

現在データベースにどれくらいの俳句が収録されているのか分かりませんが、「季語」を「台風」として検索してみたところ、次の51句が出てきました。台風がやってくる情景や過ぎ去った情景を詠んだもの、台風そのものの特質や性質を詠んだもの、比喩として台風が使われているものなど様々です。

  俳句            作者名
ひたすらに赤し颱風前の薔薇桂信子
不夜城を見て颱風のいきいきす佐野笑子
九州で台風なぜか右折する平瀬元
人の眸の細く鋭し颱風後桂信子
人生の台風圏に今入りし高浜虚子
台風が逸れて肉屋に肉並ぶ伴場とく子
台風が過ぎ去り魚に成り切った堀節誉
台風すぐ沖にいて家並みの灯服部修一
台風にゐて東京に出口なし佐分靖子
台風に目ありピエロに泪あり花谷清
台風のいつも空虚な目に見らる松本勇二
台風のそとにでてゐるえとらんぜ松澤昭
台風のまっただ中のガラスの家服部修一
台風の円らな眼日本見る薄木滋
台風の大きな目から見えるもの山口木浦木
台風の海に向きたり龍馬の瞳長尾信子
台風の目に釘付けの写楽かな新家保子
台風の野山と草木丸洗ひ平出佐和子
台風の靴片っぽが砂浜に伊藤眞一
台風やカスガヒがある道具箱前原蟻子
台風や大海に通開け給へ中村敏子
台風や大豆もやしの急成長松本加代子
台風や曇りそめたる八咫鏡林香稟
台風一過あすからはダイエット荒井玲
台風一過とことん朝の歯をみがく鈴木光彦
台風去りてつづきを塗ってゐるペンキ屋有馬登良夫
台風接近幹すれあうは泣くに似る西川碧桃
台風禍水の星てふきれいごと安田直子
台風過仁王の視線やわらかし竪阿彌放心
台風過腰のささえる貰い水山野智江
壺中にて育つ台風それも嫉妬岡本独楽児
大風の目のなかに打つ五寸釘室谷光子
天気図の台風の眼がこちら向く山陰冗
弁天堂に首飾りの猫台風来星野明世
日本を打ちてし止まぬ台風禍村岸明子
母在せば百歳颶風来ては去り岸清一
燦々と台風一過カレー煮よ松澤昭
猫迷走アビラウンケン台風圏時田久子
蓼ほそくのびて台風圏に入る藤木清子
遠くの颱風保護帽の黄がひしめき來る鈴木六林男
鐵臭芝生足の方向颱風來る鈴木六林男
颱風せまる村は鋼の匂いに満ちて髙尾日出夫
颱風に帽子奪われ貌のこる中川秀司
颱風の去にし夜よりの大銀河竹下しづの女
颱風の息づく雨は篠つけり西島麦南
颱風の目の中部屋の上に部屋池田澄子
颱風は明日何しにくるならむ小川双々子
颱風や大八車野砲めく大澤玲子
颱風や守宮は常の壁を守り篠原鳳作
颱風をきし足拭けどしめりとれず川島彷徨子
颱風外れ月夜の貨車として進む桂信子

心を惹かれる台風の俳句

さて、51句の中で個人的に心を惹かれたのは次の句です。

人生の台風圏に今入りし 高浜虚子

解説不要なインパクトですが、「今入りし」が何とも言えない気持ちにさせられます。いったい何があったんだ。そして虚子が何歳の時の句なのだろう。

台風が逸れて肉屋に肉並ぶ 伴場とく子

来ると思っていた台風が逸れていき、外に出てみると肉屋に肉が並ぶいつもの風景があった、というような光景をイメージしました。仮にそういう意味合いだったとして、何の情景を描写するかが肝なわけですが、肉屋に肉が並ぶというのが、何とも絶妙な生命力や安心感だったり、少し拍子抜けしたような気持ちを感じさせてくれます。「台風一過とことん朝の歯をみがく」「台風去りてつづきを塗ってゐるペンキ屋」あたりも主題的には似たような句なのかなと思います。

季語を入れたうえで、因果があるんだかないんだかよく分からないけど、なんだか緩やかにつながりが感じられる情景描写をするというのは俳句のあるあるな作り方だと思います。こういう取り合わせの妙が感じられる俳句は、自分のような俳句ライト層でも、俳句らしさが分かりやすく感じられて好きです。

母在せば百歳颶風来ては去り 岸清一

母が生きていたら100歳だった、ということですが、「台風来ては去り」とはどんな関係なんでしょう。台風の時期に亡くなった母を、死後何度となく来ては去っていく台風の状況の中で思い出しているのか、はたまた100歳近くまで生きた母の波乱の人生を台風と比喩的に表現しているのか。その両方という可能性もありそう。

颱風せまる村は鋼の匂いに満ちて 髙尾日出夫

颱風の目の中部屋の上に部屋 池田澄子

颱風外れ月夜の貨車として進む 桂信子

この辺りは私レベルではなんのこっちゃか分からないのですが、なんだか面白い、気になると思わせてくれます。一つ一つの事象は何となく分かるし表現も魅力的(「台風迫る村」と「鋼の匂いに満ちる村」、「台風の目の中」と「部屋の上に部屋」、「台風が外れる」ことと「月夜の貨車として進む」こと)だけど、それぞれの関係性はよくわからない、でも何となく緩やかに関係していそうというのが気になるポイントのように思います。

関係性がよく分からないながらに、台風迫る村が鋼の匂いに満ちることは、どことなくよからぬ未来を予感させるし、台風の目と部屋の上の部屋、台風が外れたことと月夜の貨車として進むことは、どことなく軽やかさを感じさせます。

あらためてこれらの句を見ながら台風について考えてみると、台風は来ても逸れても私たちにとっての一大事であり、だからこそ台風が来たから何が起きたか、来なかったから何が起きたかが描写されるのだと思いました。この台風が来る、来ないという事象に付随する心象や気配を、「村は鋼の匂いに満ちて」「肉屋に肉並ぶ」といった情景の中に感じ取れるというのが何ともすごいことだと感じます。

あらためて考える俳句の魅力

俳句は描写と言われますが、実際に俳句を作ろうとすると、17文字の中に叙述を入れる余地はないことを痛感します。描写しかないからこそ、「…で!?…で何!?」とばかりに、その句にどんな意味が込められているのかを聞きたくなります。そんな「圧倒的不十分さ」が今のところ感じている俳句の魅力です。

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